新型コロナウイルスの感染が急速に再拡大しています。緊急事態宣言のたび重なる発出で、もはや打てる手が実質的にない以上、感染が広がるところまで広がり、国民が「いよいよまずい」と思って行動変容してくれるまで待つしかないのかもしれません。政府の完全な失敗といって差し支えないでしょう。
いくつかの共通点
私はもう記者を辞めて長いのですが、前回の国難である東日本大震災のときは、まだ現場で取材をしていました。そして今回のコロナ禍を迎えて感じたのですが、こうしたクライシス時における政府をはじめとする日本の組織の対応には、いくつか共通点があるように見受けられます。そこでこの1年半、ぼんやりと考えていたことを備忘録として以下に記しておこうと思います。なお、これらはあくまで個人の印象および偏見、思いつきに過ぎません。真実の探求は現役の記者の皆さんにお任せします。
①「目的の分散化」
何か緊急事態が起こった際には、事態の悪化を防ぎ、状況を好転させるため、いま最もしなければならないことを明確にしなければなりません。有限であるリソースをそこに集中的に投下しなければならないからです。しかしながら震災時もコロナ禍でも、日本の組織はこうした目的の絞り込みが苦手なように見えました。
福島第一原発の事故では、原子炉を冷やすために海水を注入しようとした現場判断を、東京電力の上層部が廃炉を恐れて止めようとしたと言われています。塩水を注入すると内部が腐食してしまい使えなくなるからで、真水を待ちたいという考えだったようです。メルトダウンが迫ってくる中、何を差し置いてもやらなければならないことは、原子炉の冷却であることは間違いありません。しかしながら東電は、「原子炉の冷却」と「プラントの保全」という2つの目的を掲げ、かつ失敗しました。
コロナ禍でも政府は「感染の収束」と「経済の活性化」という2つの指標を追いかけているようです。こうした2つの目的はたいてい相反する命題になりますから(反さない場合はどちらかの目的に包含されるため)、限られたリソースを有効に使うことが難しくなります。資源が分散するだけならまだしも、一方を達成することによって、もう一方の実現が不可能になるかもしれません。アクセルとブレーキを同時に踏むとはよく言ったものですが、そんなことをすればクルマは本来の機能を発揮しないでしょう。
なぜ目的が分散するのかについてはいろいろな意見があるでしょう。日本人は合議を重んじるからとか、お金や利権が絡んでいるとか、そのようなよく言われていることも一面の真理だと思います。ただ、私が受ける印象で一点付け加えたいのが、日本の組織は「吝嗇」なのではないかということです。くだけて言ってしまえば「ケチくさい」というか「あわよくば両方を手に入れたい」と思っている節があるように見受けられます。この状況下になっても、まだ東京都知事はパラリンピックの有観客への望みを捨てていないようですが、これもまた「吝嗇」の一つの表れと思えるのです。
なぜ「吝嗇」になるのかは、もちろんお金がないこともあるのでしょうが、実際の予算がどうこうというよりも「少しでも損をしたくない」というメンタリティがあるようにも見えます。何か日本人の国民性に根差したものなのでしょうか。
②「事実より希望的観測を優先」
コロナ禍においてPCR検査の数が少ないことはずっと指摘されてきました。しかしながら多少は改善されたものの、今になっても海外のようになる気配は一向にありません。おそらく市中には確認されている以上の陽性者が多くいることが予想されますが、そのような「事実」は明らかにされることはありません。震災後にも地表よりかなり高い場所で(しかもクルマで移動しながら)放射線量を計測して安心感を演出していましたが、放射性物質は地面にたまるため、地表付近ではより高い「事実」上の線量が計測できたはずです。
こうしたことを「日本人の情報軽視」と片付けてしまうのは簡単ですが、なぜこうした「事実」をきちんと把握しないのか、また事実とは別に発表されている情報とは何なのかを、もう少し掘り下げてみたいと思います。
これもまた私の印象に過ぎませんが、世の多くの人が考えているより、はるかに政府や大企業は国民のことを恐れています。世論の沸騰ほど怖いものはない。なぜなら下手に炎上すれば、政治家は落選、企業は不買運動にあって、大きなダメージを受けるからです。ですから一般的に考えられているよりも国民のことを相当重視しています。ですが敬意を払っているわけでもありません。どちらかといえば、口うるさいヤカラのような見方かと思います。
彼らは「こうした人たちに本当のことを伝えたらすぐに炎上して大変なことになる」と考えます。だから真実ではないけれど、嘘ともいえない数字をひねり出してきます。これが先ほどの「事実」とは異なる情報です。(本当はもっといるかもしれないけれど)検査した中では陽性者○名でした、(本当はもっと高いかもしれないけれど)計測した範囲では○マイクロシーベルトでした、というような。
(本当の数字を出したらパニックになるから)国民にとって安心のできる、いわば国民の「希望的観測」を発表するというロジックです。もちろん国民も馬鹿ではありませんから「そんなはずはないだろう」とSNSやマスコミの報道を通じて意見表明します。すると彼らはますます確信することになるわけです。「ああ本当のことを発表したらどれだけ炎上したんだろう」と。
だからこれは、本当は彼らの「希望的観測」なのですが、一般的な意味での「(国のために)こうあってほしい」という願望ではなくて、「こうあってくれないと俺の(私の)社会的立場が危うくなる」というような「独善的観測」とも呼べるものです。
彼らももちろんこの数字が「事実」と異なることを知っています。ですが「事実」に基づいた施策を取ることはできません。そのような正式なデータは持ち合わせていないし、本当は持っていても公式には「ない」ことになっているからです。「ある」のは希望的観測のデータなのです。保守系評論家の山本七平さんはこうしたことを「員数主義」(書類上の帳尻さえ合っていれば実質は問われないこと)といって厳しく批判しました。
こうして希望的観測に基づいて対策を取り始めると、後戻りもできず(だって事実じゃないことを認めることになりますからね)、さりとて効果も得られず(だって事実に基づいていないですからね)、という状況に陥ります。山本さんの教訓によれば、「員数主義」は厳しい現実の前に粉砕されるということで、我々もよくよく噛みしめる必要があるでしょう。山本さんは太平洋戦争で従軍した経験からこの悪弊と教訓を導き出したのですから。
③「ロジスティクスの失敗」
ロジスティクスとは物資の調達や補給、輸送をはじめとする後方支援全般のことです。震災時には多くの支援部隊が現地に入りましたが、ガソリンが確保できなかったり、物資の運搬が滞ったりといった場面が多くあったと取材で聞きました。今回のコロナ禍においてもワクチン供給が滞っていますね。
日本人は一般的に、前線でドンパチやるのは華々しくて大好きだけど、後方支援は大した仕事じゃないと位置付けて好まないと言われています。役所でも大企業でもロジスティクスは表面的には軽んじられているわけではありません。ロジができない奴には重要な仕事は任せられないという人もいます。ただ調整事が多くて厄介な仕事とは思われていても、あまり専門性のある業務とは思われていない節はあります。その意味では、忘年会の幹事役と同レベルで、口先では重要と言いつつも、実のところでは軽視しているのかもしれません。
私はこの手の才能がないのでよくわかるのですが、ロジスティクスは極めて知的で、調整力、ストレス耐性も求められる高度な仕事です。例えば職域接種レベルの準備でもとても大変です。ワクチンがどの程度必要なのか、いつ納入されるのか、どのように保管すればよいのか、保管に当たって準備すべきものはあるのか、会場設営はどうするのか、医師の確保はどうするのか、接種希望者はどのように募るのか、どのように社内告知するのか、その文面の準備は…などなど、タスクは山のようにあります。ただこれらをこなしていくだけであれば話は単純なのですが、物事には優先順位というものがあります。医師のスケジュールを押さえずに接種日程は組めませんし、医師のスケジュールを押さえる前に会場を確保しなければなりません。
こうした多種多様なタスクを整然とした計画に落とし込み、関係者と調整しつつ、しかもタイトなスケジュールに追われながら、着実に進めていかなければなりません。私が思うに、こうした業務は適性がかなり問われます。「調整事が多くて汗をかく仕事だけど頑張って」と多くの人ができる仕事のような扱いをされますが、息をするようにスムーズにできる人と、そうでない人の差は歴然です。
ワクチン接種を進める上で、どの省庁がロジスティクスを担当したのか分かりませんが、目詰まりを起こして自治体への供給が滞ったり、廃棄が相次いだりしていることを考えると、うまくいかなかったのでしょう。口先で「重要な仕事」と言いつつも、実のところで軽視している日本の土壌が失敗を招いたのでしょうか。本当のところはわかりませんが、「ローマ軍は兵站(ロジスティクスのこと)で勝つ」というぐらいですから、こうした仕事に精通する人材の育成、そして(ここが重要ですが)正しい評価をしてほしいと思います。
きっと克服は不可能
以上、かなりの偏見をもって、この1年半と10年前を振り返ってみました。これ以上グダグダ書くのはやめておきますが、最後に一言。おそらくこうしたことを我々は克服できないでしょうし、次のクライシスでも同じようなことが起きるでしょう。東日本大震災のような惨事を経験してもまた同じ失敗をしているのですから。
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