衆院選の投開票が31日に迫ってきましたが、個人的に気になるのは選挙結果よりも投票率だったりします。選挙権は政治家の当落に直結するという意味で最強の人事権なわけですから、国のオーナーたる国民は政策の結果を適切に評価して、その権利を行使しなければなりません。人事権者がそのような行為を怠れば、国はもちろん、どんな小さな組織でも運営に支障をきたします。
ところが日本人はなぜか、政治(家)への文句が多いわりに、投票率は低めです。居酒屋で部下の文句を呟いている上司が、職場で適切な評価を実施していないようなものです。普通に考えれば、このような上司は部署のオーナーとしての役割を果たしていません。こうした場合、いかに部下の出来が悪かったとしても、問われるべきは上司の見識と力量でしょう。
それは政治についても同じです。「政治は国民を映す鏡」とはよく言ったもので、民主主義である以上、もし今の政治が悪いのであれば、それはオーナーたる国民の責任であると言わざるを得ません(国民の「知る権利」行使の代理人という建前があるマスコミの皆さんは、国民批判はできないでしょうから、代わりに引退した私が言ってみました)。
なぜこんなことになるのかとずっと考えていたのですが、最近はこんな仮説を立てています。日本人はカスタマー(客)として注文をあれこれ付けるのは得意でも、オーナー(主)としての振る舞い方が実は分からないのではないかと。
客とオーナーの違いを飲食店を例に考えてみましょう。その店でまずい料理が出てきたら客は文句を言い、二度とその店に行かないかもしれません。対してオーナーであれば、文句を言うだけではなく、そのような料理を提供したシェフを指導し、改善がなされない場合は別の料理人を雇うでしょう。
客は文句は言いますが、課題解決はしませんし、そんなことを求められてもいません。従って責任もありません。オーナーは違います。その店は自分そのものと言ってもいいわけですから、最終責任は全て降りかかりますし、課題解決にも動かなければなりません。その責任と表裏一体のものとして、彼には人事権という権力が与えられているのです。彼の立場は客よりも大変かもしれませんが、その店が繁盛すれば利益の大半を得ることができます。一方、客は気楽ではありますが、永遠にオーナーにはなれません。
日本人は世界一厳しい消費者だそうで、そういう意味では、客としての振る舞い方はよく分かっていると思いますが、果たしてオーナーとしてはどうでしょうか?
日本が近代化して約150年、敗戦後の民主化からは約75年しか経っていません。日本は昭和で時が止まっているとよく言われますが、地方では封建時代をまだやっているのではないかと思われるようなところすらあります(私も地方出身者ですから、感覚として分かります)。時代を少し遡れば国民のほとんどは領主に年貢を納めていた農民です。誰が悪いわけでもなく、こうした国民がオーナー意識を持つには、もう数世代かかるかもしれません。
日本が民主主義ではなく「民客主義」にとどまるならば、今のような社会が、文句が溢れながらも、課題解決がなされるわけでもなく、まだしばらく続くことでしょう。そしてその場合、残念なことですが、国のオーナーはやはり政治家という現代の領主様ということになるのだと思います。
痛みを伴ったコロナ禍での政権運営に審判を下す今回の選挙。結果がどうあれ、国民には客ではなくオーナーとしての振る舞いを期待します。それが多少、自分たちの身の丈に合っていなかったとしても。
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